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カテゴリ「アーニイ・パイルの前に立ちて」に属する投稿[6件](2ページ目)
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上野の公園における各種の展覧会や、図書館や、凡そこの種の文化的施設を、市井の中心地にあって市民の生活と密接に終始すべき理想により、この地を選んで新築せんとしたのである。日支事変のために、その計画を中止したのみならず、東京電灯に帰すべきその用地の大半は、航空会社に徴用され、辛うじて三角尖端の枢要地六百余坪を所有しえたるも、これまた戦局の進展とともに航空会社に包容せらるるにいたって、私の空想は一場の夢と化し終った。
その用地の境内に立って、日比谷公園から宮城方面の暮れゆく夏の夜の黒い樹木の上には、折柄片破れ月が澄みきった星空に光っている。右隣にそびゆる第一生命の白亜館が、浮き城のように巍然として輝いているのを見上げながら、ここが連合軍の司令部であり、わが国に平和を与えた救いの神マッカーサー元帥の事務所であることに敬意を表する。
第一生命のこの建物は、旧社長矢野翁心血の結晶であって、この戦争に巻込まれなかったならば、恐らく世界における有数優秀保険会社の一つとして、わが国の誇るべき大会社であったのである。私は、かつてこの会社の重役の一人として多年出入した関係から、この内部の堅固さと壮麗さとに対しては満足して居ったのであるが、マッカーサー元帥がこれを使用して以来、更に一層綺麗になったという話をきいて驚いたのである。
『我々は綺麗だとか、清潔だとかについて、限度の無いことを知らなかった。綺麗、清潔と言うても凡そ事務所の建物としては、ある程度の標準で満足して居ったのであるが、マッカーサー元帥司令部の掃除というものは、徹底的で、我々の考えとは天地の差があるのに驚いた。毎日毎日、一日も欠かさない、各階の掃除にはそれぞれ専門の軍人がいる。それも尉官級、佐官級であるらしい。そして各階の責任者が一応掃除のすんだことを報告すると、その上長官の一人が、更に全部を一巡して検視するのであるから……』
と、いう話を、石坂社長から聞いて、その学ばねばならぬことの多々益々多きを感ぜざるを得ないのである。
その綺麗さと、掃除の行届いたことと、ここにもまた眼の前、鼻の先に開展した好個の対照物について、私は老いの繰り言を、こぼさざるを得ないのである。それは東京会館と帝国劇場とである。
この二つの建物は昭和十一年、世界を一周して帰国すると、ただちにその理想を実現せんとして買収したものである。東京会館は現に、進駐軍の使用によって見ちがえるように花やかに、立派に、綺麗になっている。私の孫の大学生は、英語の勉強のために勤労者の一人として働いている。彼は命ぜらるる時間通り働きづめに働いている。ぼんやりと手を空しうして、油を売る時間の無いように、順序よく働かせらるるのに満足しつつ、その得るところ大なるを喜んでいる。
この東京会館の賑やかな、花やかな夜色に対して、帝劇のうす暗い周囲の光景を見るために、帝劇の屋上近い部屋の一隅に佇立したのである。そして帝劇附属館である四階建洋館の真暗な、沈黙せる建築を凝視すると、東宝の若い連中が、ここにも宝の持腐れを抱いて平然としているその呑気さに驚くのみである。
然し、帝劇そのものは、幸いにもバレエ「白鳥の湖」の開演中とあって、今しもチャイコフスキーの前奏曲が静かに、ゆるやかに、響き渡るのである。このクラシックのロシヤンバレエが、満員日延の興行であり、若い男女の事務員達が、嬉々として二十五円の入場料を払い大衆支持の盛況を呈していることは、帝劇買収当時の理想から見て、何という皮肉な現象であろう。敗戦の日本に主権は人民にありという新憲法が議会を通過し、民主主義は確定されて、「帝国劇場」という名称すらもピンと来ない時、私は過去を語らんとするのである。それは『なぜ帝国劇場を買収したか』について、今やその将来を杞憂するからである。